種目採用のきっかけ-中野浩一選手の活躍
競輪は長らく日本国内でのみ行われていた、世界的に見れば全く無名の競技でした。
そんな競輪が全世界に認知され始めたのは、競輪が「ケイリン」という形でオリンピックの正式種目になってからです。
この時から、競輪(ケイリン)が国際的な自転車競技の一つとして認められ始めました。
そして、このオリンピックにおける種目採用の背景には、ある日本人選手の活躍がありました。
ケイリンの正式種目採用のきっかけになった中野浩一
競輪は日本では非常にポピュラーな自転車競技で、競技として確立されてから70年以上の歴史があります。
しかし、自転車競技の本場であるヨーロッパや数々のメダリストを輩出しているアメリカやオセアニアでは、全くと言っていいほど無名の競技です。
簡単に言ってしまえば、競輪というのは日本のローカルスポーツなのです。
ただ、この競輪にいくらかのルール変更を行った「ケイリン」はオリンピック種目に採用されて以降、徐々に国際的な知名度を高めています。
さて、そこで気になるのは何故が「ケイリン」としてオリンピックの正式種目に採用されたのかということです。
これについては冒頭で「ある日本人選手」と示唆しましたが、この日本人選手とは中野浩一氏のことです。
現在はコメンテーターやタレントとして活躍されていますので、若い方にとってはそうした印象の方が強いと思いますが、一昔前は「中野浩一」と言えば国内では誰もが知っている有名な競輪選手でした。
現在のケイリンは、この中野浩一氏の活躍が有ったからだと言って間違いありません。
以下で、彼の活躍とケイリンがオリンピックの正式種目に採用されるまでの流れを紹介したいと思います。
中野浩一の活躍とケイリンの種目採用
中野浩一氏は、1955年生まれで福岡県出身の元競輪選手です。
日本競輪学校を1975年に卒業し、その年に競輪選手としてのデビューを果たします。
デビュー後は順調に勝利を重ねて行き、何とデビューから18戦連続勝利という記録を打ち立てます。
そして、そのあまりの速さから「九州のハヤブサ」という異名で呼ばれるようになります。
翌1976年には、イタリアで開催された世界自転車選手権にスプリントの選手として初参加します。
さらに、そのまた翌年のベネズエラ大会にも引き続き参加し、この大会で日本人として初めて自転車の世界選手権で優勝します。
そして、中野選手の快挙はこれだけに止まりませんでした。
何と、この1977年のベネズエラ大会から1986年のアメリカ大会まで、世界選手権スプリントでの10連覇を成し遂げたのです。
この記録は、もちろん日本人では中野氏以外に誰も達成していませんし、他国の選手ですら誰一人達成していません。
その証拠に、現在も同一競技における世界選手権最多連覇としてギネス記録に認定されています。
つまり、中野選手は歴史的な大記録を打ち立てたわけです。
そうなれば、当然日本の自転車競技関係者も黙ってはいません。
中野選手のこうした偉業達成を受けて日本自転車競技連盟(日本車連)は国際自転車競技連合(UCI)に対して、世界選手権におけるケイリンの開催を打診します。
その結果、中野選手が初めて世界選手権で優勝を飾った1977年のわずか3年後である1980年に競輪が世界選手権の正式種目に採用されます。
これはまさに、中野氏を筆頭にした日本自転車競技会の快挙であったと言うことができます。
さらに、この1980年の16年後には、この年のアトランタオリンピックから自転車競技がプロ・アマを問わずオープン化することが決定され、
この機会を捉えて日本車連が国際オリンピック委員会(IOC)に競輪(ケイリン)の正式種目採用を打診します。
そして、世界選手権における16年に渡る実績がIOCに認められ、アトランタオリンピックの次のシドニーオリンピックから正式種目として採用されることになりました。
以上が、正式種目採用までの一連の逃れです。
これを見れば、中野浩一氏の活躍が大きなきっかけとなってケイリンがオリンピックの正式種目に採用されていることが分かります。
もしかすると、中野氏の活躍が無ければオリンピックでケイリンが行われることは無かったかもしれません。